さかさケヤキ

  嘉右衛門山の神

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 むかし、白石の中ノ目に嘉右衛門(かえもん)という状(じょう)持ちがいました。状持ちというのは郵便屋さんのように、人々から手紙やお金やにもつなどをたのまれては、米沢や山形などへとどけてくれる仕事をする人です。嘉右衛門はたいへん正直でまじめな男で、けんめいに仕事にはげみせしましたので、みんなから「かえもん、かえもん」と言われ、たくさん仕事をたのまれて歩きまわるのでした。

 白石から小原温泉へ行く新道がまだできない時代には、重い荷物は、遠いけどゆるやかな鎌先温泉のそばの道を川原子を通って行きました。荷物をつけたたくさんの牛がぞろぞろと行くのでした。それほど重くない荷物は、高さ500mもある小原山のとおげをこえて運びました。けわしい山道を登ったり下ったりしました。馬や牛につける荷物も、ここをこえる時には、森合の山の下で半分おろして二度に運びました。

 嘉右衛門は、このけわしい小原山のとおげを、こん色のてっこうときゃはんに、わらじをはき、着物のすそを後の帯の間へはさんだ身軽なすがたに、小さい荷物を2つにして手ぬぐいでくくりあわせ、それを肩から前と後にわけてかけて歩くのでした。近い所や、急な用事をたのまれれば1日に2度行くことさえありましたし、夜道を行くこともめずらしくはありませんでした。

 山道を通る時、あやしい男によびとめられたり、「金を出せ」とおどかされることもありました。おいはぎが出るといううわさがある時は、特別に気をつけて通りました。できるだけ仲間といっしょに歩くようにしていましたが、それでも仕事の都合で、どうしても夜のとおげ道を1人で、とぼとぼ帰らなければならないこともありました。

 1人で通るある夜の事でした。お月さまが出ていて、ちょうちんをつけないで歩ける夜でした。遠くまでよく見通すことができて、白石川や斉川の流れが、はるか下の方に白く光って見え、遠くの山まではっきり見え、その山すそには、うすいもやがたなびいていました。毎日見なれている景色でも、今夜はまた、とてもすばらしくよく見えます。

 もうこれを下ればすぐですと。足をゆるめて、いつも休むケヤキの大木の根へこしをかけて休みました。この木は、ほうきをさかさまに立てたように、下の方は一本で、と中から五、六本のえだが出ているのです。てんぐ様が来て休む木だといいます。そのてんぐ様は、ここに休んだ人に、よくいたずらをするのです。

 どっこいしょと立ち上って行くと草刈がまをわすれたり、大切なにぎり飯をわすれたりして、あわててもどって来るのです。子どもたちもおおぜいで来て、今日はわすれんぞとみんな、にぎりめしをこしにしばりつけたり、かまをおびにはさんだりして、わいわい言いながら、木のえだにこしをかけて遊んだり、木の上でおにごっこをしたりしました。だいじょうぶと思って帰りますと、「あれゃ、おれの手ぬぐいわすれて来た」、またみんなでもどってみますと、木のえだの上の方にひらひらと手ぬぐいが風にふかれて、ひるがえっていたりするのでした。

 子どものころ、「てんぐ様にばかにさったや」などと、大笑いして通ったが「あの時はイッチャンととなりのデゴスケとテンケチャンとショッケチャンだったっけなあ」と嘉右衛門は子供のころを思い出しながら、わらじのひもをゆわえ直して、どれどれと立ち上って、ごみをはらって出かけました。「あれっ手拭いをわすれたわい」と少し行って気がつきました。「ああてんぐ様、まだござったのか。また、いたずらされてしまいました」と1人でおかしくなって、くすくす笑いながら、手ぬぐいをとりにもどりました。

 草がすれる音がしましたが、自分の足音と思いながら歩いて行きました。思わずギョッと体が先にこわばって、ぞくぞくっとしました。「あれっ、あの草のすれる音はなに」と思う間もなく「そうだ、オオカミだ、あのオオカミだ」と分かりますと、頭から水をかぶったよりももっとぞくぞくっとしました。

 きのう、だれかが村の茶屋で話をしていたのを聞いたっけ。「何でも病め犬だとか、オオカミだとか、少し声まで変わって、気があらくなって、昼間でも出て来て人にすがたを見せますし、かみつくそうな。道のそばの岩の上に前足を二本そろえて、とがった耳をピッと立てて、耳までさけている口をかっと開いて、日させえかみつくようなかっこうで、ほえていたそうな。悲しそうな声で、ほえていたそうな」とも話していたっけ。さあこまったことになったぞ。食われてしまうぞ。にげたってオオカミは速いからなあ、それにこの坂道だ。石ころに足をすべらせたら、それこそたいへんだ。急ながけだもの、谷底へたたき落ちたらそれっきりだ。

 おれの命もないもんとあきらめるよりしかなかろうな。おれが死んだら年とったおとっつぁんとおっかあさんがなんぼかこまるべ。ああそうだ。この手紙、どうしたらよかろう。何でも丸サの店のだんなさまに飲ませる大事な薬が入っていると言われて来たのに。これがとどかなければ、丸サのだんなさせの命があぶないそうだ。おらは、オオカミに食われてしまってもしかたがないが、この薬をとどけなければ大変だ。すまないことだと、頭の中には一度に、いろいろなことがうかんできました。

 岩かげをひょいと曲がったとたんに、「出たっ」と、さけび声を出しかけて、ぼうのようにつっ立ってしまいました。そこにいたのです。オオカミが道の真ん中に、ちゃんと前足をきちんとそろえて、こっちをむいてすわっているのです。嘉右衛門が来るのを待っていたように、目ははっきりと嘉右衛門を見ているではありませんか。嘉右衛門は、進むことも引き返すこともできません。引き返しえしたら、後からがっとかみつかれるにきまっています。「もう、だめだ」と思いました。目をつぶって、思わず神様にいのりました。ところがオオカミはおそってきません。ゆっくり目をあけました。オオカミはとびつくようすがありません。

 がっと大きな口をあけて一声悲しそうにほえました。前足を上げて口のそばを引つかくようにしているのです。何か嘉右衛門に、うったえるような、こまったような様子です。口をひっかくようにするのは、ひょっとすると何か、のどにひっかかっているのではないかと思われました。どうも、そうらしいと思いますと、今度は恐ろしいのもわすれて、持ち前の親切な心から思わず、つつつっとオオカミのそばへよって行きました。それでもオオカミは、じっとしているではありませんか。月明かりに口を開いたところをのぞきこみました。手をあごにかけても、オオカミは嘉右衛門のするままになっています。嘉右衛門は、自分の犬にでもするように口を開かせ、思いきって手をオオカミののどに手をつっこんで、指でさぐってみると、かたいほねのようなものにさわりました。それを指先でしずかに、しっかりつかんで、ぐいと力を入れてぬきました。オオカミは苦しがって、げえげえいっていましたが、手をはなしますと、一声高くうれしそうにほえて、あっという間に岩をとびこえ、草むらの中へすがたをけしてしまいました。

 それから後の事です。嘉右衛門が夜おそく一人で帰る時や、おいはぎが出て道があぶないとうわさのある時や、大金を持って通ったりする時は、どこからともなく、ひょっこりオオカミがすがたをあらわして、嘉右衛門の後になったり、先に立ったりして、ついてくるようになりました。そのためあぶない目にあうことはなくなりました。嘉右衛門にたのめばだいじょうぶと、町の人々はすっかり嘉右衛門を信用しました。それで、ますます仕事は、はんじょうするばかりでした。

 嘉右衛門は、これもみなあのオオカミが自分を守ってくれるからだと思いました。オオカミは山の神のお使いだから、きっとこれは山の神が自分を守ってくださるのだと信じました。ある日、嘉右衛門が山道を歩いて行くと、あのオオカミが道ばたで死んでいました。嘉右衛門は山の上の見晴らしのよい所にオオカミをとむらい、この山を行くおおぜいの旅人を守って下さるようにと石のほこらを立てました。

 嘉右衛門の山の神、という山の神様が、今も自石市・中の目の西の山頂にまつってあります。