傑山寺(けっさんじ) 札幌市白石区

北海道を開拓(かいたく)した片倉家中(かちゅう)

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 明治元年(1868年)、戊辰戦争(ぼしんせんそう)に敗れた片倉氏は、賊軍(ぞくぐん)の汚名(おめい)を受け、白石城とその領地(りょうち)を取り上げられました。片倉家中(片倉家につかえたけらい)1400人とその家族は、住む場所がなくなってしまいました。
 当時の領主(りょうしゅ)、片倉邦憲(くにのり)は傑山寺(けっさんじ)にけらいの代表数百名を集めて、これからのことを話し合いました。うす暗い本堂にろうそくをつけ、3日間ねずに話し合いましたが、いい考えは出ませんでした。

 19才の家老(かろう)、佐藤孝郷(たかさと)が言いました。
「賊軍の汚名をはらうには、北海道に移住してこそ、武士のめんもくが立つ」
孝郷の言葉に、けらい達も賛成し、明治3年(1870年)から片倉家中の命がけの北海道移住が始まりました。

 当時、まったくの未開地であった北海道に女子供を連れた道のりは、つらくきびしいものでした。しかも、北海道への旅費をまずしいけらい達が自分でしはらわなければならず、さらに苦しい旅でした。あまりのじょうきょうを見かねた白石按察府(あんさつふ 地域の政治をおこなった行政機関)は、白石城をこわし売ったお金150両を、特別にけらい達にあたえました。

 移住を提案した孝郷は、明治4年(1871年)9月12日398人の仲間と寒風沢(かんぷうざわ 今の塩竈市浦戸)を出発しました。船はかつて勝海舟(かつかいしゅう)・福沢諭吉(ふくざわゆきち)らを乗せてアメリカをおうふくした咸臨丸(かんりんまる)でしたが、帆船となっていた咸臨丸は6日かかって函館(はこだて)に着きました。その後、小樽(おたる)に向かうと中であらしにあって、船は岩に乗り上げ動けなくなり、全員がやっと上陸すると咸臨丸はあえなく沈没(ちんぼつ)しました。その後、後続の船に乗り、苦労の末やっと新しい土地、小樽にたどり着きました。

 孝郷は、開拓使貫属取締(かいたくしかんぞくとりしまり)に任命されました。札幌(さっぽろ)本庁と交渉し、月寒(つきさっぷ)の丘から川が流れ林が広がる土地を選びゆずり受けました。
 機械のない時代、すべ人の手で大きな木を切り、根をほり起こし、土地をたがやし、冬の寒さにたえながら開拓を続けました。

 視察にたずれた北海道開拓使判官岩村通俊は、片倉家中たちのみごとな仕事ぶりに感心し、この土地をふるさとの名をとって「白石村」(今の札幌市白石区)と名付けました。孝郷は、多くの困難を乗りこえ、開拓者たちをはげまし続けた働きをみとめられ、明治7年(1877年)25歳で札幌初代区長になった。

 佐藤孝郷のはかは、傑山寺(けっさんじ)の初代片倉小十郎景綱のはか印一本杉近くにある。